2022/09/06 20:03

いきなり大袈裟なタイトルで釣ってしまうつもりはありませんが...。


失礼いたしました。
「もう心で撮る時代」になりつつあります。
まさに言葉の通りで、撮影者の心なくして訴求力のある写真は撮れない、そんな時代に入ったことを感じます。

同じ空を撮ってみても、
同じ花を撮ってみても、
大変に訴える力が強い作品と、そうでない作品がある。

その違いはどこにあるのでしょうか?
その違いは何なのでしょうか?
その答えは?
「心で撮っているかどうか?」ではないかと思っています。

何か、訳のわからないことを言いはじめたな!
そのようにお感じになったかもしれません。御もっとも。


いままでの時代には、物資最優先と言いますか、モノがありき。そしてテクニックありきでした。
高画質のレンズを揃えれば高画質が自動的に手に入る。
続くデジタル化とともに、センサーの性能やキャラクターのウエイトが高まり、ボディに投資すればより高画質な結果が手に入る。
そして、
ダイナミックレンジやノイズ処理の「うまさ」が結果に結びつくため、その目に見えないメーカー独自の処理技術が高画質化のカギとなってきたこと。もうご存知の通りです。
これらは、ハード面での進歩と歴史でした。

他方、
撮影者側のスキルという観点では、より印象的な結果を導くための「使いこなし」や「知識に基づく操作」が求められ、その知識や技法を知っている者だけが、アピール度の高い結果を手に入れることが可能でした。


その昔、フィルム時代には、
晴天の雪景色をカメラ任せで撮ると、まるで吹雪であるかのように「ドス黒く灰色に包まれた」絵になったものです。
それは、ニュートラルグレイ18パーセントに合わせてゆこうとするカメラの露出計の特性に原因がありました。
これを乗り越えるため、
撮影者が「白い色が多い構図ではプラスに露出補正をして!」と、習ったものです。それが教科書だったのです。
そして、それを実践できれば「晴天の真っ白な雪景色」が手に入りました。
同じく、
漆黒のドレスを撮ると、こちらも同じく「灰色の品のない色」のドレスになってしまったものです。
これも18パーセントグレイに原因がありました。

こうした特性を知り、それを操作というプロセスで乗り越え「望む結果を導く」ところに写真の楽しさがあった。そんな時代でした。


次のフェーズに入りますと、
デジタル化とともに、撮影者が意図した通りに、後から露出やホワイトバランスが調整できるようになってきます。
この段階で、意図した結果に昇華させる道筋が整いました。
撮影者は、撮影時点のノウハウやスキルだけではなく、後工程の画像処理とともに「自分らしさ」を表現するようになります。

しかしながら、
スマートフォンのカメラが高性能・高機能化するとともに、あるいは搭載されるチップの能力を持て余すようになってきますと、撮影時点での画像処理にその余力が使われるようになってきます。

後処理でパソコン画面に向かい、自分の望む結果を得るために試行錯誤する。
そんな楽しさまでも、スマートフォンのカメラは「シャッタータップの瞬間(あるいはそれまでの間)に」処理し、望ましいとされる結果にまで仕上げて保存するようになったのです。

こうして「何も考えずにシャッター押すだけでキレイに撮れる」と言われるスマホ写真の出来上がり。
時代はここにまで一氣に到達してしまいました。
並行して、
Instagramに見られるような、故意に階調や色調を破壊して遊ぶ、といった成熟した時代の落とし子のような道も作られました。


成熟し切ったカメラと画像処理のセット性能・プロセスにより、撮影者は、もはや「やることがない」状態になったとも言えます。
撮って・フィルター・秒速でSNSアップロード。
そして、
どれだけ短時間でどれだけ多くの「いいね!」を集めるか。人々の関心は、そんなところに落ちぶれて(個人的感覚)行きます。


---もうやることがない撮影者。
---だれが撮っても似た様な写真ばかりのSNS。

ところが!です。
ここでブレイクスルーが起きます。


同じ空を撮っても、全然パワーが違う。
同じ花を撮っても、まったくエネルギーが異なる。
そんな写真に巡り合う機会。間違いなく増えてきました。

答えを急ぎます。
それは、
撮影者が「撮影時点で心を込めている」のです。
撮影者が「撮影時点で被写体のエネルギーを閉じ込めている」のです。
そして、
鑑賞者が、その心やエネルギーを「感じよう」とすると、その瞬間にシンクロし強力な力となって語りはじめるのです。


そんなバカな!
そんなことあるわけない!

果たしてそうでしょうか?
もう実体験している方も多いはずです。

この世には、目に見えることや形として触れることができないエネルギーが数多く存在しています。
新年に神社に参って手を合わせるのはなぜですか?
お盆にご先祖にお参りするのはなぜですか?
そこに、目に見えて形として触れることができるものはありますか?


こういうことなのですね。
もう、世の中は「この目に見えないけれども強力なパワーを秘めた何か」について、朧げながらでも理解しようとし、それを信用し・感じることによって、その力を味方にする人たちが急激に増加しているのです。

こうした精神論に通じる世界をバカにし、古い枠組みの中でしか思考できない人たち。
そうした人たちは、まず「写真」というアートやクリエイティビティの分野から「接点を失って」行きます。
そして、
自らの感性がまったく役に立たないレベルに腐っていることを知ることになります。


もう「心で撮る時代」になっているのです。
食わず嫌いをせず、まずそのパワーを感じてみませんか?
食わず嫌いをせず、まずその力を受け止めてみませんか?

ますます楽しく、ますます深いところに進化してゆく世界。
写真だけではなく、世の中がもうその方向に進んでいるのですから。


本日も最後までお読みいただきありがとうございました。
(この内容は、別途エッセイだとかの形でまとめてみたいと思ってます。)