2022/09/20 20:55
昨日の記事では「対比」をテーマに書きました。
今日は、明暗(明るい・暗い)の差。という要素に着目してみます。
明暗差をダイナミックレンジという言葉でパッと置き換えてしまうことも多いのですが、実は大変奥深い世界でもあります。
スタジオ(いわゆるブツ撮りや人物撮影)では、照明の活用について学ぶことが多いと思われます。
その照明は「光と影」や「明暗差」を活用する世界でもあったりします。
ここで「光と影」といった言葉を書きますと、何やら、この混乱期と世の中の裏側を知れよ...的な話を語っているかのように錯覚し、流行語大賞的な感覚に陥ってしまいます。
ですが、
写真や映像の世界、そしてその元締めである照明の世界では、大昔から「基本のキ」として語られてきました。
あまりにも大上段から構えてしまいますと、またまた終わらなくなる懸念がありますので、今日はサラッと流します。
光と影は、その「対比」という重要なファクターの一つです(昨日の記事のように)。
そして、その対比をどのように扱うのかが、表現者の表現たる所以です。
あ、言葉に酔ってはだめですね。
言葉を変えてみます。
光の当たるところは明るい・そうではないところは暗い。
これが大前提にあります。
そして、
明るい部分を「どれだけ明るく」するのか。
暗い部分を「どれだけ暗く」するのか。
ここに表現のコツが潜んでいます。
ちょっと何を言ってるのか分からない?
かもしれません。
人間が目でみた明暗の差と、写真として画像で見える明暗の差。ここに大きな隔たりがあります。
人間が目でみて(実際には目はレンズの役目しかせず、脳がそれを判断するわけですが...。)感じる明暗の差、それは自然界の明暗差ですが、写真のそれとは比較にならいほど大きいのです。
写真だと飛んでしまって真っ白。あるいは潰れてしまって真っ黒。
これが明暗差が大きい状態。
写真(カメラ)のダイナミックレンジに収まりきらない大きな明暗の差がある場合に、このようになります。
人間の目ではこの状態に陥ることはまずありません。そう滅多に起きることがありません。
なぜなら、
頻繁にこうした限界に達していると、ブラックアウトした(何も見えていない)時間が生じてしまうので、極論すればその時間が長ければ長いほど生命の危険に晒されます。
ここに脳の処理能力の凄さを感じるわけですが、
実際の明暗差よりも、より小さく(狭く)処理する能力があるはずなのです。
極端に明るすぎる場合には、もっと暗く。
極端に暗すぎる場合には、もっと明るく。
そのように感じるように処理されているのだと思われます。
よって、写真がすぐに限界に達するように写るために、肉眼で見たのとは異なる世界が作り出されます。
明るいところは飛び(飛び気味)、暗いところは潰れ(潰れ気味)になる。
それが新鮮だと感じるのです。
シルエット。という言葉がわかりやすいでしょうか。
それは真っ黒な影だけで表現する手法。実際にはその被写体は真っ黒ではありません。肉眼ではその存在をしっかり認識できます。
この「見た目」と「写真」違いがアート・表現の世界として語られてゆきます。
見た目に近いような明暗差に仕上げるのか。それとも、アーティスティックな明暗差に仕上げそれを表現の一つとして語るのか。
こういう部分がありますよ、そしてそれが楽しみでもありますね。
というお話しでした。
やっぱり今日も長くなってしまいました。
写真というフィールドに落とし込みますと、それは「露出」であり、明暗差は「コントラスト」であり、昔から語り尽くされてきた要素なのだと現実に引き戻されます。
心の世界と、技法という現実世界と。
その采配度合いを楽しむのも趣味の奥深さであるはずです。
明暗差を仕切る者が写真を制する。
そんな感覚でこれからもお楽しみください。
技法と自然の強大な力とを融合したテキストとしてご活用ください。
本日も最後までお読みいただきありがとうございました。